緋村剣心のモデルは河上彦斎(かわかみ げんさい)です。「人斬り彦斎 ひときりげんさい」として知られ恐れられていました。
河上彦斎は尊皇攘夷派として活動し、1864年の佐久間象山の暗殺事件で有名になりました。明治維新後も攘夷思想を持ち続けた彦斎は、濡れ衣を着せられ斬首されます。享年37歳でした。
河上彦斎のお墓は、東京都大田区の池上本門寺(いけがみほんもんじ)にありますが、わかりにくい場所にあります。わたしは真夏の1時間も迷いました。
これから弔うのに汗だくでは失礼ですよね。お墓までスムーズに行けるよう写真を使ってわかりやすく順路をまとめました。
よくある質問(クリック)
河上彦斎とは?緋村抜刀斎に選ばれた理由
河上彦斎は「るろうに剣心」の主人公、緋村剣心のモデルとなった人物です。
彼はその生涯を通じて尊皇攘夷の信念を貫き通しました。
- 幼名: 小森彦次郎
- 養子: 11歳で河上家の養子となり、河上彦斎と名乗る
- 教育: 儒学者の轟武兵衛や国学者の林桜園に師事し、尊皇攘夷の思想を深める
- 尊皇攘夷運動: 熊本藩の親兵として活動し、宮部鼎蔵らと共に尊皇攘夷を推進
- 佐久間象山暗殺: 1864年、開国論者の佐久間象山を暗殺し、「人斬り彦斎」として名を馳せる
- 池田屋事件: 新選組に討たれた宮部鼎蔵の仇を討つため、京へ向かう
- 投獄と釈放: 戊辰戦争中は熊本藩に投獄されるが、維新後に釈放
- 新政府との対立: 新政府の開国政策に反対し、攘夷を主張し続ける
- 最期: 1872年、新政府に危険視され、斬首される
彼がモデルに選ばれた理由は、共通点があるからです。
まず、河上彦斎は小柄で色白な容姿を持ち、一見女性のように見えたと言われています。また、彼は片手抜刀の達人であり、逆袈裟斬りを得意としていました。
さらに彼の温和な性格と妻子に対する優しさも、緋村剣心のキャラクターに反映されています。
電車+徒歩:河上彦斎のお墓への行き方・場所【池上本門寺】
河上彦斎(かわかみげんさい)のお墓は、大田区池上本門寺の境内あります。
- 東京都大田区池上1-1-1
池上本門寺までの交通手段は、電車・車・バスがあります。池上本門寺周辺には、タイムズがたくさんあるので車でもOKです。
この記事では、池上駅からの徒歩ルートをご紹介します。
東急電鉄池上線「池上駅」北口に出ます。
東急電鉄池上線「池上駅」北口を出て直進します。
20メートル先、右手に池上本門寺までのマップが設置してあります。◯→◯へ進みます。
マップから10メートル先に交差点があります。渡ってミスタードーナツに向かいます。
ミスタードーナツ正面に「本門寺通り入口」のアーケードが見えてきます。
「本門寺通り入口」を直進すると、右手に「池田屋」が見えてきます。右折します。
池田屋を右折すると、すぐに交差点にぶつかります。左折します。
左折すると、正面に池上本門寺が見えてきます。
池上本門寺「総門」が見えてきます。
池上本門寺はほとんどの建物が再建です。なぜなら1945年(昭和20年)の空襲でほとんどが焼失したからです。
五重の塔・宝塔・総門は無事でした。
総門入口、左手に境内地図がありました。
上記動画は、総門から河上彦斎のお墓までのルートです。距離にして300メートルほど。
境内マップの眼の前に石段があります。此経難持坂(しきょうなんじざか)と呼ばれ、慶長年間(1596年から1615年)に加藤清正が寄進したものと伝えられています。
此経難持坂(しきょうなんじざか)を登ると仁王門が見えてきます。
仁王像は再建です。1945年(昭和20年)の空襲で、仁王門と仁王像を焼失しました。1977年(昭和52年)に仁王門、翌年に仁王像をそれぞれ再建してます。
仁王門をくぐった先が、加藤清正が最初に建立したとされる祖師堂(大堂)です。
ただしこちらも戦時中に空襲で焼けてしまい、戦後鉄筋コンクリート造りのお堂として再建さました。
空襲の損失は、計り知れません。
仁王門を右折すると五重塔のが見えます。
池上本門寺の五重塔は、慶長12年(1607)に2代将軍秀忠の病気快方を願い、乳母の正心院日幸尼(岡部局)の請願で建立されました。
現存する関東最古の江戸創建五重塔で、国の重要文化財に指定されています。
池上本門寺の五重塔は、空襲の被害を受けていませんが、老朽化によって8度ほど修理しています。
五重塔の左付近に「力道山の墓所はあちらです」と書かれた看板が見えます。
看板を直進します。
間違って看板を左折してしまうと力道山の墓所に行ってしまうので注意が必要です。
小さな階段を登ると「河上彦斎先生碑」が見えてきます。
「河上彦斎先生碑」という文字が刻まれた石碑があります。しかしお墓ではありません。その奥に河上彦斎のお墓はあります。
河上彦斎の墓石には「通称 高田源兵衛」と刻まれています。改名したのは暗殺を避けるためです。
河上彦斎は幕末の尊皇攘夷派の志士であり、多くの暗殺を行ったため「人斬り彦斎」と呼ばれていました。特に、1864年に開国論者の佐久間象山を暗殺したことで知られています。当然、幕府や新政府の要人たちにとって危険な存在と見なされ、暗殺の標的となっていました。
河上彦斎は、明治4年12月4日(1872年1月13日)に、東京の日本橋小伝馬町で斬首されました。
新政府の方針に従わず、危険な攘夷論者と見なされていたためです。彼が大村益次郎や広沢真臣の暗殺事件に関与した疑いもかけられていましたが、実際の関与度は低かったとされています。